卑弥呼と新書

 昨日。大学に合格した従妹が友だちと二人でこの街へ遊びに来たので、少しだけ時間をともにする。リクエストで美術館に行き、観光客でやたら混んでいる市場の店で海鮮丼とあら汁をごちそうする。それにしても、従妹と僕はともかく、従妹の友だちに僕の猟奇的な彼女という、妙な面々が一堂に会しているというのはなんだか変な感じであるよほんとにまあと、話に花が咲く女性3人組をぼんやり見ながらそう思った。それにしても、彼女、恋人、意中の人、いいひと、思い人、あのひと、でもなんでもいいけれど、こういう言葉を使うのはきまりが悪い。久世光彦さんの『卑弥呼』(新潮文庫)じゃないけれど、新しい呼び名を川上弘美さんあたりに提案してもらいたいものだ。文学作品ではこのあたりをどう処理しているんだろう。ちょっと意識して読んでみようと思う。
 新書御三家(中公新書岩波新書講談社現代新書)が本当につまらなくなった、というのは畏友Oくんの言葉だけれど、確かにそんな気がする。ここ数年間で新しい新書が続々と出版されている(一方で岩波アクティブ新書のように早々に休刊してしまったのもある)。新書の内容の濃さ(おもしろさ)が一定だとすると(そんなわけないのだが)、以前は御三家で分け合ってたのが、今は何十の新書で分け合うようになった結果、おもしろさが薄まってしまったのではないのかい、と冗談だけれど、そんなことをぼんやり考える。新・新書が増えた分、御三家の置かれるスペースは小さくなる。都市部のメガ書店はともかく、少なくとも僕の住んでいる街の一番大きな書店における御三家の占めるスペースはびっくりするほど小さくなっている(ほんとに。見せたいくらい)。新書は辞書代わりに使えるので、何かをまじめに知りたいときはまず新書から、という癖が学生時代から身についてしまっているだけに、ちょっと古めの定番の新書を買いに行っても見つからない、ということをここ最近、何度も経験している。だからどうした。んで、今日、書店に行くと、見たことのない新書がまた出ていて、正直うんざり。ソフトバンク新書、である。すごいね。ライブドア新書だって、ホリエモンが逮捕されてなければ出てたような気がするし、そのうち、トヨタ新書、なんてのも出るかも。『トヨタ生産方式に学ぶ捨てる技術!』とか。売れそう。今日の立ち読みはecocolo(エココロ)。中谷美紀さんが表紙の。

卑弥呼 (新潮文庫)

卑弥呼 (新潮文庫)